siztsbの日記

インプット・アウトプットのサイクルを回すために書いています。

旅行記録:第17回日本スカウトジャンボリー

8月4日から10日まで、長い休みをいただいて、第17回日本スカウトジャンボリー(石川・珠洲)に参加した。

 

日本中のボーイスカウトと関係者総勢13000人が参加する日本ボーイスカウト最大のイベントで、今回は指導者として参加したので大会の事を俯瞰的に眺めることができたし、前回参加(14回)の時は特殊な立場で参加していたので、そのころよりもずい分と楽しませてもらった。

いよいよ野営始まるぞー!というときの写真。後ろにスタッフの詰めているマーキーが煌々と光っているが、今回の我々の参加隊は灯火を十分量揃えていなかったので薄暗かった。

開会式。夕食準備でモタモタしていた結果、開会式の場所取りには完全に失敗した。いろいろ疲れていて、ライブパートに入る前にサイトに帰ってミーティングをしていた。ここまで遠いと、さすがに訳が分かりません!

物販列の途中にあった看板。物販は2日目に早々に売り切れが発生していて厳しかった。前回大会の16回ではかなりの在庫ができたらしいので調整した結果そうなったのではないかという声があった。

総じて晴れの日が多かったので、サイトのゲートも青空によく映えた。今回は一眼レフをもっていかなかったので星空を撮影することができなかったけど、夜の天の川、惑星、星たちは息を吞むほどの綺麗さで、1時間以上星を眺めて過ごしていた。星の観察といえば山だと思うけど、海も悪くないなというかんじだった。なぜか月が出ていなかったのでそれもよかった。

すごく気持ちよさそうに見えるけども外気温は33度とかだったので大変だった。熱中症で搬送されるスカウトがたくさんいたようで、救急車も出動していたように見えた。細心の準備と熱中症にならないぞ!という心積りが重要だと思った。

閉会式前の様子。だいぶステージに近いところに来ることができた。国旗ほとんど最前だったこともポイントが高かったと思う。旗の降納は横浜カラーチーム隊が行っていたのだけど、惚れ惚れするような所作だった。

そんなこんなで、6泊7日のキャンプ生活は終わった。残すものは感謝のみ、の精神で十分にサイトを清掃して帰ったけども、大会本部ではいろいろな事象が発生していたらしく、奉仕隊の皆様には頭が上がらないといったところ。ありがとうございました。

 

今回の参加は割とノリと勢いで決めてしまったところがあって、自分の中で技能や指導力がまだまだかな、といった状態で挑んだこともあり、細かいところでミスが出たけれども、ほかの副長にうまくカバーしていただいてとてもありがたかったし、その中でたくさんの全国の仲間がまた新しく増えた。行きたいところが多すぎて困るくらい。若手の指導者とつながれたことも個人的には大きかった。

 

こういったスカウティング活動は、やりがいを感じてやるものではなく、自発的なやりたい!と思う気持ちを持ち続けることが大事だと実感したし、そういった活動を行うことで、よりよいプログラムをスカウトに経験させられると思った。今後もやれるだけ頑張っていきたい。

読書『悪と全体主義 ハンナ・アーレントから考える』

ハンナ・アーレントに最初に出会ったのは、修士1年生の時で、ちょうど紀伊國屋書店札幌本店の2階の思想書売り場の斜め向かい(ぼくがいつも立ち読みしていた場所!)で、たまたまナチス・ドイツに関する書籍のフェアをやっていて、そこでちらっと見た時だったと思う。その時は『全体主義の起原』とか『イェルサレムアイヒマン』は高いし読むのが大変かなと思い『ホロコースト全証言』とか『戦争は女の顔をしていない』を買って読んだことを覚えている。つくづく、乱読しているなと思う。

 悪による政治と全体主義はいまになってはほとんど重なって見られるものであると思うのだけど、実は悪というのは陳腐なんですよ、とハンナ・アーレントは指摘した。その事と全体主義の誕生、流布の歴史の解釈についての解説を加えるような内容だった。いわゆる悪が法制度としてあって、それが正しいとされている世界において、制度に従わず自分の良心に常に従うことができるか、ということを強烈に問いかけられる。すなわち、自身が1930年代のドイツにいて、自分の道徳に従えたかということであると解釈できると思う。みんながやっているから自分もやってもいい、とか、政府がそうしているから仕方ない、とか、あれこれ理由をつけて悪事を冷徹に行ってしまう自分がそこにあるように思えてとても背筋が冷えた(僕はゲルマン人ではないが!)。加えて、何が正しくて何が間違っているか、ということは当事者にはいまいちピンとこないというところではあるのだと思う。第三者のまなざしを以てしても、難しいかもしれない。結局は解釈する人の価値観が効いてくることだから。多数派の言っていることが実は間違えていたと気づいたときにどう考えるか。いちいち自分に問いかけなければ、いつでも自分も悪に手を染める事態になるかもしれない。

読書『戦争における「人殺し」の心理学』

 

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)

 

 読んだ。示唆に富む書籍だ。人を殺すために戦争に行っておいて、人は人を殺せないらしい。人を殺す訓練をして、人を殺しに行って、挙句殺せずに精神病になってしまうおちという身も蓋もない話だった。性と暴力を同じような見方で見ているところも面白い。抑圧されてきた事柄には得てして興味深い内容が含まれているということか。

読書『しあわせ仮説』

最近はあまり読書をできていないが、『しあわせ仮説』を再読したり(3回目)していた。これまではかなり音楽をできていた気がしていたが、ここにきて音楽をするモチベーションが一気に下がってしまいなかなかしんどいところではある。一方で、映画を見たりアニメを見たりといった違うことに興味が向いてきたことがあり、それはそれで良いのかなと思ってきているところではある。
全然関係ないが、最近ボーイスカウト活動や指導者活動に復帰するにつけ、子供の様子を見ているとただそれだけでなかなか学ぶことが多いなと思う次第で、当たり前だが色んな子供がいて、色んな事を考えているのが面白い。中学生くらいの子供の考えること、全然わからないがそれがまた面白いというか、理詰めでは解決できないことが世の中にあることを知ることができたという点で、この時期にこの活動に携われてよかったと思う。なかなかこういったボランティア活動じみたことは、社会生活を普通に営む中で突然始めるということは難しく、機会に恵まれたということは幸運であったと言えると思う。
僕が携わるからには、スカウトには誠実であってほしい。誠実さは上辺をなぞるだけでは絶対に得られないことであるし、誠実であるためには今までの自分をある意味捨てる必要があることもあると思う。しかし自分自身の心に誠実であること、躊躇なく他者と議論を戦わせることができることこそが、自分が乗り越えることのできない他者性や、それに向き合った時の自分の正しい身の置き方といった、真に大切なことを学ぶ機会となると思うし、そうやって育った子供は強く生きられると思う。『しあわせ仮説』では、他者との関連性(あいだ)が大切だと言っているが、「あいだ」をうまく承認し、幸せの好循環をまわしていくためには、あいだがどのようにできているかをしっかり理解することが不可欠であると思う。その間には自分と相いれない思想や利益の相反が当然のようにあるが、それらがあるということそのものを知るということは、実は現代には難しいのかもしれない。そういったことが、僕がやっている活動の中で少しならず僕から伝えられれば、望外であると思う。

読書『文明が衰亡するとき』

乱読癖で、10冊以上を同時に読んでいるせいで読書に時間がかかってしまったけども、新潮選書『文明が衰亡するとき』を読み終えた。

文明が衰亡するとき (新潮選書)

文明が衰亡するとき (新潮選書)

著者が歴史散歩であると行っている通り、過去の文明の滅亡から今の世界の国家の滅亡論を唱えるものではないし、この本自体も1981年に書かれたものであるので、現在とは事情がかなりことなっている。しかしながら、より、「つながる」ようになった現代において、繋がることは利益を生むがその反動として保護主義を生むという指摘は現代の世相をまさに言い当てているものだなと非常に感動した。

敵は無限に生まれる、そんな中で結局役に立つのは国の資源とか、軍事力といったものになってしまうというのはある意味で事実であり、暗澹たる気持ちを思い起こさせるものである。

福祉国家の矛盾という指摘も興味深い。国民のために福祉国家をうちたててもとうの国民からは嫌われてしまえば、意味がないと言ってもいいと思う。今後、社会保障費が増大する中で、国内に病人があふれるようになったときに、犠牲者となるのは国か、医療者か、はたまたその両方か。今までの世界で行われて来た福祉が持続可能でないから撤退しようと提案したところで、その言説に易々と市民が肯くとは思えない。身体の健康というものは個人的なものであると同時に社会的なものとなっている。何年もの後に、より不便な世界が待っていることを、全人が認識して、躊躇なく大胆な政策を推し進めるべきではないか。特に、分散して人が居住している状況は無駄が多いので、集約して行く方向に舵を切るべきではないか。

翻り、今田舎で多く喧伝されている移住者募集についても、結局は国内でパイの奪い合いをすることになり無意味だし、部外者の侵入を快く思わない地方民にとっては災害のようなものとも捉えられる。いま、限りある人的資源、社会的資源をもってして、どのようなことができるかを、すべての選択肢を考慮に入れ、真剣に考えることが未来につながる。なかなか、示唆に富むものであった。

愛による抵抗『BPM』

映画BPM(ビート・パー・ミニット)を観た。

 

札幌市のシアターキノという劇場で観たのだけど、札幌の狸小路商店街や大通周辺は、土曜日というのにすっからかんで、往年は溢れていた中国人すら居ないという何とも寂しい有様だった。繁華街が衰退していっているのは、街の衰退を目の当たりにしているようで、少し悲しいなと思った。

 

感想をここで書こうとしばらく温めていたのだけれど、可寝たさんが僕が抱いた仄かな違和感というか、集団の闘争の中に身を沈める個人のあり方について持った感想について的確に言い当てた記事を書いてくださったので、僕は何も言うことがなくなってしまった。

tomoyukix.hateblo.jp

僕自身はLGBTとしては何も活動していないし表立ってやる気もあまりないけども(Bです)、10代、20代にして目前に約束されたような死が迫ってきた時、僕は何を出来る(もしくは、出来た)だろうか。

 

異性、同性という枠組みを超えた、普遍的かつ個人的な愛こそが、最終的に人のこころをうつものとなる。

月日はいつのまにか経っていて

昨日、2018年3月30日をもって、今の会社に勤めて1年が経ったことになった。就活から振り返ると、根拠のない自信に満ちあふれたまま何も支障なく就職が決まり、学振も通り、挙げ句いい職場に恵まれたと思っている。大学院生時代に死ぬほど頑張ったことが、すこし使えるというところも良い。時代は大きく揺れ動き、今の状況でやっていけるかどうか甚だ疑問ではあるけど、しばらくは現状を維持することができるのではないかなと思っている。