siztsbの日記

インプット・アウトプットのサイクルを回すために書いています。

読書『文明が衰亡するとき』

乱読癖で、10冊以上を同時に読んでいるせいで読書に時間がかかってしまったけども、新潮選書『文明が衰亡するとき』を読み終えた。

文明が衰亡するとき (新潮選書)

文明が衰亡するとき (新潮選書)

著者が歴史散歩であると行っている通り、過去の文明の滅亡から今の世界の国家の滅亡論を唱えるものではないし、この本自体も1981年に書かれたものであるので、現在とは事情がかなりことなっている。しかしながら、より、「つながる」ようになった現代において、繋がることは利益を生むがその反動として保護主義を生むという指摘は現代の世相をまさに言い当てているものだなと非常に感動した。

敵は無限に生まれる、そんな中で結局役に立つのは国の資源とか、軍事力といったものになってしまうというのはある意味で事実であり、暗澹たる気持ちを思い起こさせるものである。

福祉国家の矛盾という指摘も興味深い。国民のために福祉国家をうちたててもとうの国民からは嫌われてしまえば、意味がないと言ってもいいと思う。今後、社会保障費が増大する中で、国内に病人があふれるようになったときに、犠牲者となるのは国か、医療者か、はたまたその両方か。今までの世界で行われて来た福祉が持続可能でないから撤退しようと提案したところで、その言説に易々と市民が肯くとは思えない。身体の健康というものは個人的なものであると同時に社会的なものとなっている。何年もの後に、より不便な世界が待っていることを、全人が認識して、躊躇なく大胆な政策を推し進めるべきではないか。特に、分散して人が居住している状況は無駄が多いので、集約して行く方向に舵を切るべきではないか。

翻り、今田舎で多く喧伝されている移住者募集についても、結局は国内でパイの奪い合いをすることになり無意味だし、部外者の侵入を快く思わない地方民にとっては災害のようなものとも捉えられる。いま、限りある人的資源、社会的資源をもってして、どのようなことができるかを、すべての選択肢を考慮に入れ、真剣に考えることが未来につながる。なかなか、示唆に富むものであった。

愛による抵抗『BPM』

映画BPM(ビート・パー・ミニット)を観た。

 

札幌市のシアターキノという劇場で観たのだけど、札幌の狸小路商店街や大通周辺は、土曜日というのにすっからかんで、往年は溢れていた中国人すら居ないという何とも寂しい有様だった。繁華街が衰退していっているのは、街の衰退を目の当たりにしているようで、少し悲しいなと思った。

 

感想をここで書こうとしばらく温めていたのだけれど、可寝たさんが僕が抱いた仄かな違和感というか、集団の闘争の中に身を沈める個人のあり方について持った感想について的確に言い当てた記事を書いてくださったので、僕は何も言うことがなくなってしまった。

tomoyukix.hateblo.jp

僕自身はLGBTとしては何も活動していないし表立ってやる気もあまりないけども(Bです)、10代、20代にして目前に約束されたような死が迫ってきた時、僕は何を出来る(もしくは、出来た)だろうか。

 

異性、同性という枠組みを超えた、普遍的かつ個人的な愛こそが、最終的に人のこころをうつものとなる。

月日はいつのまにか経っていて

昨日、2018年3月30日をもって、今の会社に勤めて1年が経ったことになった。就活から振り返ると、根拠のない自信に満ちあふれたまま何も支障なく就職が決まり、学振も通り、挙げ句いい職場に恵まれたと思っている。大学院生時代に死ぬほど頑張ったことが、すこし使えるというところも良い。時代は大きく揺れ動き、今の状況でやっていけるかどうか甚だ疑問ではあるけど、しばらくは現状を維持することができるのではないかなと思っている。

薬物乱用と適正使用のあいだ『Take Your Pills』

ネットフリックスで配信されている、『Take Your Pills』を見た。興奮剤(覚せい剤)のアンフェタミンメタンフェタミンヒロポン)、メチルフェニデートをめぐるお話。

 

アメリカでは日本と違って覚せい剤アンフェタミンADHD注意欠陥多動性障害)の治療薬として処方されていて、大々的に広告まで打たれている。また、日本でも認可されているメチルフェニデートリタリンコンサータ)と合わせると、市場規模は1兆円を大きく上回るとのことで、製薬会社にとっては大変に大きな市場となっている。

 

ADHDの治療にのみ使われればよいが、学校での成績を上げるためにこれらの薬を乱用(Abuse)する流れがあり、それは依存症を生みだすとともに、多くの成功者を生む。一見矛盾する帰結が面白い。IT企業に勤める男は薬のおかげでいい仕事を得る。使った学生は成績が上がる。一方で、依存症となり薬なしでは動けなくなってしまう者、大量に摂取しなければ生活を維持できない者が映し出されており、薬の威力を思い知らされる。

 

が、同時にこれら興奮剤を摂取したところで実際に能力が向上するわけではなく、「能力が向上した気になる」だけということが重要であると語られる。プラセボ群と実薬群の間に実際に能力の向上に関する有意差は見いだせなかったが、実薬を摂取した群では「より自分はできるんだ」という気持ちになったとのことで、非常に興味深い。

 

根拠の無い自信は人をとても成長させる場合がある。ここぞという場面において自信のあるなしが大きく結果を左右する。発表の場、討論の場、面接の場。色々な場面において、僕たちは自信を必要とする。そんなときに、自分の実力を水増しで評価できるようになる薬があれば、それはそれは幸せなことかもしれない。

 

アメリカでは同時に、オピオイド系鎮痛剤の依存症も大きな社会問題となっており、米国の医療系ニュースや大衆紙では連日この話題ばかりになっている。トランプ氏が言及したことも記憶に新しい。処方鎮痛薬であるオピオイドに依存して壊れていく患者、死亡する患者。1年で3万人以上がオピオイドの過量投与で亡くなっているというから驚くべきことだと思う。分母が違うが、日本人の自殺者数が年間2万人ちょっとなので、それを大きく上回る人がオピオイドで死んでいる。しかも、入り口は処方薬というから、誰も浮かばれない。製薬会社だけが儲かっている構図が、容易に描かれると思う。

 

とんでもない病や癌などの病の帝王みたいなものでなければ、薬である程度は病気をコントロールできる世界に僕たちは行きている。癌すらも慢性疾患になると言われている。すなわち喘息のようにコントロールしながら一生付き合える病気になるということと解釈出来る。

 

薬によって多くの命が救われ、それにより多くの社会的・経済的価値が生み出されていることは重要であるが、同時に薬の重大な副作用により苦しむ人がいる。そのバランスは如何にとるかという議論になる。確率の問題だ。3%の確率で副作用が起こる薬と30%の確率で副作用が起きる薬、どちらを飲むか?という問題になる。

 

数字に落とし込まれて、自分にまさか副作用が起こるはずがない、とか自分は特異体質じゃないから大丈夫。と「根拠の無い自信」を持つ。しかし、起こる人には副作用は起こる。起こってしまったらその人にとっては100%の副作用になってしまう。被害に遭って初めて自分の過信を知る。なんだってそうだ。

 

日本は世界有数の、医薬品審査期間が短い国へと変貌を遂げた。そんな時代にあって、新薬の安全性はより厳重に担保されなくてはならない。社会防衛、社会犠牲のために失われる命は、現代においてあってはならない。僕らはもっと賢い時代に生きていていいはずだ。

 

知っておきたい薬害の教訓―再発防止を願う被害者からの声

知っておきたい薬害の教訓―再発防止を願う被害者からの声

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イスラーム映画祭3

渋谷ユーロスペースに行って、イスラーム映画祭3と題された一連の映画を見てきた。公式ガイドも買い、歪められがちなイスラーム世界の香りを少しながらも感じることができた。最近は山にも登れないので映画を見たりして過ごしているけども、案外芸術に親しむ機会は少ないので、良いのかなとも思っている。ただ、読書時間が減ったので、それはあまりよくないかなとも思った。

映像によって、僕たちは世界をある面から知ることができる。映像のかけらと記憶が、あらたな価値を生み出す基礎となると信じている。

北陸に戻って1年

何と、北陸に戻ってきて丁度1年となった。学術振興会特別研究員+科研費によるある意味安定した博士課程学生となる道をあきらめて、社会人生活をすることにしたわけで、それが現実のものとなってまる1年経ったということだ。なんというか、自分の研究はかなり楽しかったし、良い雑誌にも掲載できる内容だったと思うものでもあったけれども、現状国立大学に漂う閉塞感と教員の間にも蔓延する慢性的な研究費不足、ポスト不足、若手の雇用の問題が自分に降り掛かって、それに対抗できるほどの力は僕には無いかな、というある意味逃げを打ってしまった形だった。結果的に現在はそれなりに楽しく仕事をできている。去った研究室は予想通り人員の流出と研究費の削減のあおりを受けていて、保ってあと3年だろうと思う。儚いものだと思うけれども、仕方がない。現実、これから20代後半を生きるにあたって、これからの日本でどうやって生きていくかをしっかり考えることが重要なのではないかと思う。僕は地方に住んでいるけれども、地方の衰退は著しく、商店は軒並みシャッターが閉じていて歩いている人はほとんどいない。公共施設を全数維持するのも難しいという現状で、これが向こう10,20年先にはどうなっているんだろうかという不安を抱かざるを得ないところで、講談社現代新書『縮小ニッポンの衝撃』を読んだ。

 

縮小ニッポンの衝撃 (講談社現代新書)

縮小ニッポンの衝撃 (講談社現代新書)

 

 この本は、これから人口がぐんぐん減っていく日本にあって、実際に破綻してしまったまち、夕張やこれから破綻するのではないかと目される街。それらに関して、現状と未来、そしてこれらの人口減少とは無縁と考えられていた場所さえもリアルとしてそれがやってくる可能性について述べている。夕張では、生活インフラさえも満足に維持できないために、住民にある種立ち退きを要求したり、わざと住みにくい街を演出したりして「追い出し」にかかっている生々しい現実がある。この現象は、住民の生産性が住民にかかるコストに釣り合いが取れなくなった場合に発生する可能性があると思われるが、筆者はあらゆる場所に同様の事が生じるかもしれない、ということを突きつける。人口減少は現実だ。また、僕がこの先もこの国に生き続けるのも現実だ。リアルが厳しく、僕たちに問いかける。未曾有の人口減少を、どう乗り切るか(あるいは、乗り切らずに衰退を認めるか)。やはり、読書や観劇、旅行等、外界と接する機会を多く作って、さまざまな状況に柔軟に対応できるのが良いのだろうか。今のスピード感のあるコンテンツ消費に乗って、刹那的に生きるのが結果的には良いのだろうか。先を見通せない世界において、一応の若手として、選ぶ権利は自分自身が持っている。否、選んで、責任もって振り切る義務がある。平田オリザ氏は「人生棒に振るなら綺麗に振れ」のようなことを言っていたが、多様な生き方が認められつつある今、「綺麗に振る」こともそれなりに悪くない選択なのかもしれない。それを、大学院生時代に選べなかったことは、ある意味自分自身がつまんなかった。今、それができるかと問われると、微妙だと思う。結局は凡人として生きる道を選んでしまいそうな、そんな事を夜中に考えていた。

安楽死が許容される状況とは

JAMA Intern Med.に非常に興味深い記事が掲載された。

「Medical Assistance in Dying」

jamanetwork.com

 

この記事は、カナダでの筆者自身の患者に対する安楽死経験を述べたもので、胃癌治療のための化学療法を停止するかどうか、という決断を患者自身が行い、結果的にそれが良い行いだったとするものだ。

 

We learned the following lesson from this experience. When many of our other patients died, the hardest part for the family was dealing with the uncertainties; when will they die, how would they die, what will it look like, is he or she in pain? And they have to make serial decisions; when to stop blood work, intravenous hydration, vital signs, and remove tubes? All of these uncertainties and decisions induce enormous distress. With MAID, all of that uncertainty and agonized decision making is removed. As a result, the family and the patient undergo much less stress.

 

とあるように、不確かさ(不確実性)に対して対処することが家族にとって大変つらいことであり、それに伴う意思決定が家族に任されることが重圧となるという言は、医師として臨床にいる人が感じている声であり、たしかにそうなのだと思う。 がん患者自身が自分の安楽死を望むことは、これらの事から家族を解放するための有力な手段だ。ただ、彼らが結びで述べているように、

 

“Today we did a good thing,” one of us remarked to the other during a mentoring moment when leaving the hospital that evening. We’re not sure if we’ll ever do this again, but we believe that in this circumstance it was the right care, for the right patient, at the right time.

 

適切な介入、患者、時が重要なのであって、それが問題となるような状況下では行われてはいけないことは当たり前だが重要なのだろう。人生は本人だけで回っていることは少なく、色々な人との関係性で築かれているので、本人のDecisionが回り回って色々な問題を引き起こすということはままある話なのかもしれない。まあ、そんな事が起こるのは本人が亡くなった後なので、なんの関係もない話かもしれないが。

 

生死に直接関係する事は、透明性と同意に基づく執行でなければならないが、そのための制度づくりは道半ばだ。

medicalnote.jp

 勿論、今回の記事で触れられているような方法は倫理的、法律的な問題が日本においてはつきまとう。事例が出て来れば間違いなく社会問題化するのだと思う。なかなか藪の蛇はつつけない。