siztsbの日記

考えていても言葉にできないことを文章にして残しておくことでいつでも読み返せるようにしています。

シンデレラガールズ5thライブ

シンデレラガールズ5thライブSSA公演までもう1ヶ月きってしまった。僕はLV見る気まんまんで普通にCDを2枚買って一応応募したのが1日目だけ当選したので飛行機に乗って行こうと思っている。これだけ演者が多いのだから、セットリストはユニット曲ばかりになるのか、そうでもないのか。これまで新曲ばかりやってきたから個人的には以前のソロ曲をやってほしい。会場限定CDを求めることが重要だ!いつも旅行記とかつけず写真もほとんど撮らないのであとで何にも残らないが、今回ばかりは少し記録を付けたほうがいいような気もしている。

 

あと、北九州に旅行に行こうと思っている。小倉と八幡と博多に行って歴史と産業遺産を見てくるのだ。小倉は実は行ったことがないのでとても楽しみなのである。博多では友達に会う。あとあと、SCOTの演劇を見に富山まで足を伸ばす。楽しい夏になりそうで、今からテンションが高い。

安楽死が許容される状況とは

JAMA Intern Med.に非常に興味深い記事が掲載された。

「Medical Assistance in Dying」

jamanetwork.com

 

この記事は、カナダでの筆者自身の患者に対する安楽死経験を述べたもので、胃癌治療のための化学療法を停止するかどうか、という決断を患者自身が行い、結果的にそれが良い行いだったとするものだ。

 

We learned the following lesson from this experience. When many of our other patients died, the hardest part for the family was dealing with the uncertainties; when will they die, how would they die, what will it look like, is he or she in pain? And they have to make serial decisions; when to stop blood work, intravenous hydration, vital signs, and remove tubes? All of these uncertainties and decisions induce enormous distress. With MAID, all of that uncertainty and agonized decision making is removed. As a result, the family and the patient undergo much less stress.

 

とあるように、不確かさ(不確実性)に対して対処することが家族にとって大変つらいことであり、それに伴う意思決定が家族に任されることが重圧となるという言は、医師として臨床にいる人が感じている声であり、たしかにそうなのだと思う。 がん患者自身が自分の安楽死を望むことは、これらの事から家族を解放するための有力な手段だ。ただ、彼らが結びで述べているように、

 

“Today we did a good thing,” one of us remarked to the other during a mentoring moment when leaving the hospital that evening. We’re not sure if we’ll ever do this again, but we believe that in this circumstance it was the right care, for the right patient, at the right time.

 

適切な介入、患者、時が重要なのであって、それが問題となるような状況下では行われてはいけないことは当たり前だが重要なのだろう。人生は本人だけで回っていることは少なく、色々な人との関係性で築かれているので、本人のDecisionが回り回って色々な問題を引き起こすということはままある話なのかもしれない。まあ、そんな事が起こるのは本人が亡くなった後なので、なんの関係もない話かもしれないが。

 

生死に直接関係する事は、透明性と同意に基づく執行でなければならないが、そのための制度づくりは道半ばだ。

medicalnote.jp

 勿論、今回の記事で触れられているような方法は倫理的、法律的な問題が日本においてはつきまとう。事例が出て来れば間違いなく社会問題化するのだと思う。なかなか藪の蛇はつつけない。

人に石を投げつけることができるのは、投げつけられる覚悟がある人だけだ

誰しも、完璧にオーディエンスではいられない。ある日投げた石は誰かを叩きのめすのに十分かもしれないが、その石が自分に投げつけられる段になったとき、石を投げた人は何を思うのだろうか。多くの場合、叩いている人は自分が叩かれる側にまわるとは得てして思わないし、認知バイアスによって自分がマイノリティのサイドにいくことは考えないわけだが、現実、様々な事情により(ぼくの友人もそうだが)、一瞬にして人はいわゆる差別されてしまう身分になってしまうわけで。極端には、明日交通事故にあって半身不随になりました!とかいう状況になっても生きていかなければいけないわけで、色んな差別がある。ただ、そんな人達は、自分が「そちら側」に行ってしまうことをつゆも考えない。あわれなものだと思う。セーフティネットの整備が不完全な現代日本において、もっとも必要なことはこのような網からこぼれ落ちてしまう人を助けることは勿論だが、そこに至ることが社会的に差別や区別の対象にならないような仕組みを作ることが重要で、そのためのアクションが常に必要となる。しかし、北欧のようにリベラルが強いわけではないので、その試みは正しく実施されない場合が多いかもしれない。

 

進む先は光か闇かなんて、自分以外誰にもわからない。自分が、確かめるしかないのだ。当事者となって闘うべきなのだ。

どうでもよかったことがどうでもよくなくなることは恐ろしいことだ

前の記事でも書いたが、色々なところで色々な話を聞くことが増えた。高校時代の同期はフリーターになったり、劇団員になったり、無職になったりしていて無事不安定な人生を歩んでいて大変面白い。演劇時代はいろんな人がいて、いろんな事があったなあと思い起こすことがあった。ある人は、病気になった!と主張して学校から消えたり、ある人は同人誌を描く!とか言ってたけどいつの間にかコスプレにはまり、今はお祭りの街で派遣社員をやっているらしいが、いつも死にたいと言っている。4年くらいは死にたいと言っている気がするけども、死んでないからまあいいのだと思う。以前言ったように、海の見える街で働いているわけだが、田舎に住んでいる諸氏は面白いことに、疑問をほとんど抱かないし、それに対して文句を付けられると腹をたてるか、何も言わなくなるような人が多くて(ぼくの観測範囲)、話といえばテレビ、車、といった一般的な娯楽についての事が主になっていくので、僕のような科学オタクとしては生きにくいことこの上ない。非合理なことを受け入れるのが大人になることだ、と言った人がいたが、枠組みが非合理なせいで、正直むーりぃーという感じではある。とりあえず1年間は働いてみて、その後はまたその時に考えるのがいいのではないかなと思い始めた。

あと、落語を聞きに行った。柳家喬太郎の「ハンバーグができるまで」は、舞台芸術の1つの極致であるのだと思う。緊張と弛緩、登場人物の演じ分けという点において、話をしてお給料を得ている人として参考にできることは多く、大変良いものだった。


2017年7月18日、タイトルを修正。テキトーに書いて推敲せずに投げてるせいでいろんなミスがあとあと見つかる。

やっと世界が見えてきた

世界が見えてきた、というか、自分のやることがやっとわかってきたおかげでいろんな整理がついてきた。院生時代にやってた統計学、かんたんな解析、書類整理術、英語読解が意外にもいろいろなところで役立てることができるスキルであることに気づき、とても有意義な時間を過ごしたり過ごさなかったりしている。

 

これらの事を実際の仕事に活かすためにはそれなりに落とし込む作業が必要だと考えていたが、意外にも定常作業が多い現場であったため、そこまで大きな齟齬を感じずにやっていけている、今のところは。

 

最近は論文ばかり読んでいて、本を読めていないので『しあわせ仮説』の再読をしたいがまだ入手していない(中古が高い!)。あと、サイクリングを再開したり歌を少し歌ったりして、ほとんど完璧なWork-Life balanceを達成している。有り難し。

 

全然関係がない話。

突然夜1時ごろに電話がかかってきて、何やら話をしたいとのことで呼び出された。電話の主は僕の学生時代の同期。彼は極めて優秀で、何をしても僕が追いつけることはなかったと言っていい。非常に運動ができる人だったし、勉強については同じことをやっているはずなのに常に満点近くを取ってしまうようなタイプだった。旧帝大院を出て就職したはずだが…と思っていた。

 

ただ、何やら様子がおかしい。話を聞くと、仕事が続けられなくなってしまったとのことだった。勤務地での人間関係で困ってしまって精神的に参ってしまったとのことで、ああ、こんなに優秀な人でもやられるときは一瞬なのかなあと悲しい気持ちにならざるをえなかった。

 

自分を維持して労働やその他の活動を行うためには、軸を常に維持していくことが重要である気がする。相手に嫌われやしないか、とか、相手がこう思っているだろうから…というような他人目線を考えてばかりいると早晩、心が参ってしまう。特に、大学院まで出て需要のそれなりにある人は労働市場で優位に立てる可能性が高いのだから、積極的に自分の価値を高める行動を自らの意志により実行していくことが肝要であり、他者からの評価といった違う軸で行動する以外のものをもつべきである。大きな会社でもいつのまにか傾いていたり、グローバル市場に今まで以上に取り込まれつつあるこの国において、ある程度のジェネラリティを持った専門家でないと有益な労働力となりえない。

 

日々の研鑽が、明日の自分を叶える為の武器となる。

時間が進んでいくのに自分が止まっている気がしてならない

いろいろあって自分の時間が取れない状況が続いていたが、やっと少し間ができた気がする。なんとなくいろんなことを考えたりしたりしていたら、いつのまにか2時間くらいの時間はすぐに経ってしまうのが、憎いものであると思う。

 

自分の周囲の環境は激変した。自分自身、お給料をもらう身分になったし、のどかな街で働いている。それは確かにいいことではあるけれども、最近は大学にいたころに比べると、時間の進み方が悪い意味で早くなってしまっている気がする。業務に追われて早くなっているのもあるし、勉強をしっかりしなくなったから、という意味でもあるだろうが、どのように回っていくか誰も何も確信を持てない今の世界において、1ミリでも他人を出し抜ける、というか追い越せる力を蓄えておくことは重要だろう、と思っていろんな勉強をしたり、久しぶりに論文を読んだりしている。

 

誰かがこんなことを言っていた。自分が今いるところが下だと思う必要はない。今いるところで頑張っていけばいい、と。これは、表面的にはもっともらしいことを言っているが、大きな誤りを含むと思う。自分が現在置かれている環境を正確に把握することにより、自分がいかに未熟で、成長途中の存在であるか、がわかるはずであり、そこから自分が到達するべきマイルストーンを見極めて、計画的に自己の研鑽をはかるべきである。

 

ものの考え方はひとそれぞれであることは認めるが、人それぞれ、ということを会話を終わらせるための切り札に使ってはいけない。ましてや、人それぞれ、と言った人が自分の意見をしたり顔で披露して、話にけりをつけるためにこの言葉を発する様を見ると、暗澹とした気分になる。確かに、田舎に生きるということは、いろんな不条理と向き合うということだ。一方で、不条理を発生させている原因を追求することで更に良くなる物事もあるだろう。現状のまま物事をやっていくことに真に価値があるという幻想を抱いている人がたくさんいる以上、地方創生はまず不可能であろうし、いかに頭脳が明晰な人が助言に現れたとしても、頭数で負けてしまうことになるだろう。

 

現状維持を是とする田舎のパラダイムをシフトさせる、具体的な方策を考えつく必要がある。

近況

椎間板ヘルニアになったため痛み止め生活を余儀なくされた。いろいろな環境がかわって,いろいろな話をいろいろな人から聞いた。本が読めないのが残念なので,なんとか読書をしたい。しかし,読んでいた本が引っ越しのどさくさでどこかにいってしまったた。