siztsbの日記

考えていても言葉にできないことを文章にして残しておくことでいつでも読み返せるようにしています。

読書メモ『ホロコースト全証言』

久しぶりに,本の内容が有機的に繋がる経験をしている。原書房ホロコースト全証言―ナチ虐殺戦の全体像』は,1940年台に行われた近代最悪の犯罪であるナチス・ドイツによるユダヤ人等の大量虐殺の有様を証言を交えて記述したものである。実は,この読書以前に慶應義塾大学出版会の『ブラックアース』を読みホロコーストの根底に存在する精神性に対する考察を読み,また,『現代思想』の相模原障害者殺傷事件の記事を読んだ。やはり,これらに共通する精神は存在していて,我々がいわゆる多数派に属している時の少数派に対する冷徹な視線が実際に社会の中に存在しうることで,それがアドルフ・ヒトラーという起爆剤をもってして国家的な犯罪にドイツ国民を誘導することになったということだろう。本書において,著者はホロコーストの責任をいわゆる責任者であったヒトラーヒムラー,アイヒマン等の権力の中枢に存在していた人々のみに認めるのではなく,一般のドイツ市民にも当然責任があると主張する。当時の第三帝国において国民は国家に奉仕することを求められたことはやむを得ない事象としてとらえられるが,良心を失い人間狩りを行うのはやはり罪である。反面,思想がその方向に誘導されていったことも事実であり,如何にいわゆる大衆が権力の手に堕ちてしまうかということが想起される。そのような意味において社会運動を行うことや世代の政治に批判を加えることは無価値ではなく大きな価値がある。

 

学生生活を終えるにあたり,周辺に批判対して正当に挑めない人が多い事に落胆を覚える。ある意味,何も分かっていないにも関わらず権力に迎合し,事なかれ主義で何となく送る学生生活にどのような意味があるのだろうか。で,何となく就職活動をして何となく大企業の従業員になって,そこに幸せがあるのだろうか。確かに人並みの幸せは享受できるかもしれないが,知性を与えられた存在としてある以上,その構造に対する批判をすることによる世界の改善は必要であるし,そのような事が自発的にできるような人になりたいものだと思う。

新年,指針を立てる

新年あけましておめでとうだった。元日はウイスキーのGlenfiddich12年をロックで3杯飲み,2日は日本酒を飲み,3日を休肝日にして4日はビールをそこそこ飲んだ。新年は酒を飲むに限ると思う。空いた時間に駅伝を見たりアメフトを見たりした。富士通のQBとレシーバー圧倒的すぎだろ。

 

4月からは企業に行くこととした。時を同じくして,投稿していた論文のアクセプトが決まって,筆頭2報目となった。業績で評価されるならまだまだひよっこだけども,修士にしてはそこそこの仕事はできた方ではないかと思う。

 

様々な人から様々な意見をいただいて自分で物事を考えるいい機会になったと思う。一方,あまり実験を大量にするのが好きではない性分で,楽することばかり考えてしまう上に締め切りがない仕事はだらだら引き伸ばしてしまうせいで科学を推進していくにはあまりよくない一面を晒してしまった。それを発見し,自分で認識できる程度には僕も自分を相対化できているのかなあとも思う。

 

学振特別研究員やリーディングで大学院博士課程に進まれる優秀な学生諸氏にはぜひとも頑張っていただきたい。私は,どうもそこには混ざれないようなので,外野から野次を入れる人になってしまうようだ。

 

大学の常勤ポストが大幅に減りゆく中で,今博士号をとった人はどのようになっていくのだろうか。日本以外で仕事ができるほどの国際性と専門性がある人であればともかく,日本においては日本でしか通用しない仕事をしている博士を粗製している学科もあると感じる。そのような人に学生のうちから熱心な指導を与えず学位のみを与えて,そのまま放置するような教育をしてはならない。また,修士課程および博士課程において経済的支援を与えるのは良いがその先のキャリアを適切に形成することを阻害するような構造を打破しない限りは,現在博士課程に在学している学生の中において真に報われる人は少ないと思われる。

 

やはり,研究する以上,その行為によって報われたいと考えるのが人情ではないだろうか。できる人ほど報われない制度となってしまったせいで,最近の学生は博士課程にそもそも行かない,という選択をする人が優秀層において特に見えてきているという指摘がなされているのだろう。特に物事を考える人は,そのような構造を見抜いてしまっているのかもしれない。僕はグダグダ悩んだ派なので,その一員にはなっていないが。とにかく,徒に博士を増やす政策をとった以上,出口において報われるシステムを構築し,実際に運用していく気概が必要だと思う。

 

ただし,シュリンクしていく日本の中で,それは現実的ではない。社会保障費は年々増大しつづけている。来年度の予算案においても5000億円の増額とのことで,この傾向はよほどの世論の変化がない限り変化することはないだろう。当たり前だが人口が減ることで金の回りが悪くなり,貧乏な人は更に貧乏になってしまう可能性が高い。こんな中で果たして風当たりの強い基礎科学に国が積極的にお金を出せるのだろうか。現状はまだ耐えているという印象があるが,ここにメスを入れられたら一挙に制度自体が崩壊すると思う。市民は自身が関係ないもの,直接見えない少数派をスケープゴートにして社会がよくなったと思いこんでしまう。第三帝国時代の精神障害者およびロマ,ユダヤ人迫害に見られたように。

岐路

この期に及んで人生の岐路に立っている。本当に分かれ道。来年は厄年なのでどちらを選んでも厄が降りかかる気しかしないが,果たしてどうなることやら。

 

2016年,思えばいろんなことがあった。留学から帰国し,論文をまとめ,就活を4社だけしたら1社に内定した。ついでに論文もアクセプトされた。国際学会と国内学会に行き,叩かれたり褒められたりもした。受賞もあった。学振DC1にも採択された。

 

学振と就職,ほんとにどうしようかねえ。はてなの学振勢の皆様は,そんなこと悩まずに進学なされたのだと思うのだけど。最近は自分のカスさに嫌気がさしていて,果たして学位がとれるのかということをずっと考えている。

 

また,学位を取得したら取得したで僕の分野は工学系ではないので進路をどこにとるか,ということに対してさらに頭を悩ませる必要があると思う。問題だ!万が一学位をとれなかった場合……お察しかなあ。プログラミングが少しできるのでそこで誰かが僕を使ってくれればいいのだけれど。月20万の学振と数万多い民間,つらさはどちらに行っても変わらないと思うが辛さの質が全然違いそうであり。Ph.Dをとってどれだけ効力があるのかふと考えてみると,よのなかそういえば全然Ph.Dっていないよなあ。大学だけだよなあと思ってみることがあったり。

 

井の中の蛙大海を知らずのままPh.Dを取得するよりは,一度海に出て世界を知ったほうが今後のキャリアとしてもいいのかもしれない。が,今の研究を続けたい気持ちはもちろんある。トップジャーナルに載るテーマをやっていると自負しているし,その研究は自分の手で成し遂げたい。

 

だが,しかし,しかし。思考の無限後退に陥ってしまっている。大晦日をこんな陰鬱に迎えたのは2010年の大学入試以来だと思う。当時も重たい雪が降って世界は真っ白になっていたっけ。北海道にきても全く同じことになっていて,つくづく僕は時間の無限ループの中に存在しているのだなあと思う。このままループが続くなら,むこう2年はあまりいい年にはならなさそうだ。

 

しかしそんな時運を打破する強力な思想と推進力を大学生活で身に着けたはずだし,そうでなければいけないと思う。

 

頑張っていることに対してたいてい社会は評価をしてくれない。大学院に入ってからはたまたま評価があったが,本当にたまたまだと思うし,驕るつもりもない。謙虚に,しかし大胆に生きるて,世界にイノベーションをもたらすのが,やはり自分にとっての幸せなのかもしれない。

 

B3の時に,今はPIになっていて当時は臨時採用だったひとが言っていた。

「博士に行く以上,安定は捨てなければならない」

京大Y先生のもとにいたひとですらそう言うのだから。泡沫にいる僕に関してはさらにだと思う。安定を捨ててまで得られる価値がPh.Dなのかどうかは今の僕にはわからない。少なくとも,Ph.D粗製時代にあって社会的評価があまり高くないことは明白だと思う。

 

自分の観測範囲にPositive ControlとなるDCの学生がいないことも躊躇わせる要因だと思う。常にビッグラボが研究をリードするのはそれらの上にいる人々の部下に対する教育体制というか,手本となるものが示されているこそなのだと思う。

 

心に思い浮かぶよしなしごとを書いたら少し心が穏やかになったと思う。自分自身に,「よいおとしを!」。

一分子生物学へ

タンパク質1分子を測定する手法はFO-F1 ATP Synthetaseの回転運動をTIRFM(全反射照明蛍光顕微鏡)により明らかにした研究から一大分野となり,いまだ膜タンパク質の回転運動に関しては研究の最先端分野ではある。反面,僕が主張したいのはこれらの大きな蛍光プローブをつけて回転運動を見るアーティファクトの多さで,これについて詳細に議論する人がろくにいないために御座なりになっている感はある。果たして基板上に存在しているタンパク質の検討だけでタンパク質の根本的説明になっているのだろうか。説明に対する説明が要請されていて真実は無限後退の最中になってしまうのか。未来の科学者が,此の問題に終止符をうつことを期待するばかり。

とんでもない雪。

すごい雪が1日の間降った。街がたちまち雪だるま且つスキー場になった。多忙を極めた一年だったと思う。今年はもう飛行機にも乗らないだろうし,本州にも行かない(と言うより,行きたくない)。こういうことを言えるのも,一段落したから。修士論文がんばって書きましょう。

朝から雪

吹雪予報だったが夜明けからそこまで強風というわけでもなく,雪が降ったり止んだりといったところできわめて良い。路面の温度も比較的高いようで,雪が降ったそばから融けている。これ幸いと自転車に乗っている人もいる。一方で自転車でこけてけがをしている人もいる。冬道の自転車はチャレンジだとつくづく思う。来週からまた旅なので,いろいろな準備をしなければとかんがえているところ,最近さつまいもを食べていないなあなどとどうでもいいことが脳を支配してしまうことしきりだのでなかなか準備が進まない。目下,自分のするべきことをすることが,すなわち,目の前の敵を倒すことが自身の今後に直結するのではないか,といったことを,まいおちる雪を見ながら考えていた。

学会。ここ数日穏やか。

第54回日本生物物理学会年会のために,つくばに行っていた。研究の話ばかり毎日していたら日々の生活を忘れてしまいそうでもある。一日発表をしたり講演を聞いたり質問をしたりしているとあっという間に終わってしまったという感想のみで,もっと色んな研究者と語りたい,知りたいといった欲が出て来てしまうが来年の熊本迄お預けということ。

MC2であるからこそ,去年よりよい発表をしようと思ったもののなかなか思い通りにはいかないもので,いろいろな部分でほころびが生じてしまった感はある。しかしながら現在のテーマを推進することで投稿論文1本はかけるのではないかなという手応えを感じてきてはいるので頑張って進めていきたいし,それが責務であると思う。今年は年末正月返上でやるしかない。

 

大学は学生を博士課程に行かせたがっていて,自分自身かなり色々な人から勧められる。いっぽう,「来年はどうするの?」という質問が意外と多くされるのがとてもおもしろい。進学/就職で明確に別れる点であるからであるのは明白だけれども,職を得ているPDや特任職のひとにそのような質問をすることは失礼にあたる,ような風潮がある一方で相手が学生というだけで随分自由なものだとも思う。正直,今の博士課程の状況をみると,思慮を加えずにDCに進むのはかなりの博奕であると考えられる。大学の常勤ポストは年々減少し,企業もPh.Dは必要ないと公然と表明する場合もあるということで,世知辛いもの。一方,大学教員のDCの勧め方というのもいまいち定性的であり定量性に欠ける。研究の全体像がわかるとか,プレゼンが上手になるとか,今はPh.Dも民間就職が十分あるなどという話もあるが,局所的な情報をどれだけ伝えられても定量生物学徒として簡単にAgreeするわけにもいかない。

というようなことを毎晩考えている。ちなみに企業からの内定はすでに得ているのでそろそろどちらにするか,という結論を出す時が来ているだろう。自分自身,今のテーマはとても好きだし,もっと研究すれば新しい景観がいくらでも開けるだろうと思う,そして自分こそその研究をするべき人だと思う。が,しかし,雑音がその純粋性を妨げた結果迷いを産んでいるのかもしれない。B3のときに当時テニュアトラックの教員から聞いた話で,DCに進んだ瞬間に安定することは考えてはいけない,や,自分の一番幸せだと思うところに進まなければならない,という言葉が今になって胸に突き刺さってきている。

 

さておき,自身の進路を自由に選べるというのは重ね重ねありがたいことだと思う。公立中学校で見事に落ちこぼれ,地元高校でなんとなく勉強が楽しくなり,そこからの今迄の人生,十分上り調子と言えるのではないか。この状況であれば,きっと判断は間違わないだろう。その決断に後悔の念を抱かないであろう。本当に自分の思う最も幸せなルートを自分自身の言葉で紡ぐことができるようになるために,もう少し考える時間をほしい。