siztsbの日記

考えていても言葉にできないことを文章にして残しておくことでいつでも読み返せるようにしています。

北海道を脱する

修士の学位を得られる見込みになりました。4月からは海の見える町で働きます。頑張ります。

TED北大

2月26日開催のTEDxHokkaidoUに参加。米国のTEDから無料でライセンスを受けて開催しているそうで,去年も開催していた。今回初参加。英語で申し込みフォームが作られていたので本家同様英語での発表が繰り広げられるのかと思ったが日本語だった。4人のスピーカーからの様々なお話をいただき,そのどれもが心に深く刻まれるものだったと思う。以下に,感想を書く。
 
☆一人目 山崎嵩拓氏
北海道大学工学院で建築を選考する博士課程の同氏は,日本のありふれた景観についてその成因と行政との関わり,行政がどのように働きかけることで風景が生じていくのか,について研究している研究者。
研究としては,とても地道で変数が多く,議論しにくい研究内容であるなという感想だが,風景画像を実際に見てみてどのような事が読み取れるか,というワークショップが行われ,こちらが非常に興味深かった。
何の変哲もない,無味乾燥とすら感じられがちな風景の中にもさまざまな原因,意味が存在しており,例えば篠路駅前の風景は線路が見えなくてもそれが駅前と想像することができ,作られた年代も同様にして知ることができる。コインパーキングがある意味とは?歩道橋があるということは,住宅があるよね?といった些細な事柄から意味を引き出すことが豊かな「風景を観る目」をつくる。
我々が見ているものは見たままの世界だけとは限らない,とはよく言ったもので,美術や演劇を鑑賞するときと同じく,風景も前提知識をもってみることでさまざまな新しい世界が見えてくる。日常の風景が豊かになっていく。このことは,他の,景観を観る,という事以外にも十分敷衍できうるものであろう。
 
☆二人目 アリベイ・マムマドフ
とても日本語が流暢なアゼルバイジャン人の北海道大学博士課程の学生。学生でありながら,日本とアゼルバイジャンの二国間の文化交流やビジネス等幅広く活躍しておられる。
同氏からは,自分ができることを見つけ,それを自信とすることでできることを拡張していくことの有効性についての講演を頂いた。
今でこそ華々しい活躍をする同氏だが,昔日はぱっとしない学生だったという。それが,ある小さな成功体験から得られた自信を拡張することにより,念願であった渡日を達成し,現在のような活躍をしている。その秘訣は,小さな成功体験を積み重ねること。ちりも積もれば山となる,ということらしい。しかも,その山が脆弱なものではなく,ゆるぎない山であることが重要であると説く。ゆるぎない自信は,挫折から人を救う可能性が高いということだろう。
最近読書している社会心理学者,ジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』に同じような議論が掲載されていた。人間は,小さな幸福の積み重ねがあるほうが,大きな幸福が突然やってくるよりも幸福であるという。このことは,社会心理学実験により各国で確かめられていることなので,おそらく疑う余地もない事だ。彼は,例示として合唱を出しており,合唱は瞬間芸術であるためにその一瞬一瞬で音を合わせられたこと,や,ハーモニーが鳴ったことといった小さな成功体験があるために幸福を感じるのにはとても良いらしい。
よく言われることではあるが,ある理想に近づくためには巨視的な目標と微視的な目標を上手にコントロールすることが重要である。巨視的な目標だけでは五里霧中に陥ってしまうし,微視的な目標だけでは進みが悪い。マラソン選手がゴールを目指す時に実際には目前に見える電柱まで辿り着くことを目標とするように,目標をうまくコントロールして,自分をだますことにより,思いがけないような自分に,巡り会えるかもしれない。
 
☆三人目 岡本大作氏
株式会社植物育種研究所 代表取締役。育種の研究者。玉ねぎをかじりながら壇上に現れたためとても印象深かった。玉ねぎの品種改良により栄養価の高い玉ねぎや,辛さがまったくない玉ねぎといった革新的な品種を開発してきた方で,その経緯についてお話された。
元来,大手種苗会社に勤めてきた同氏は,効率のみを追求した新品種開発に辟易し独立,玉ねぎの育種に力を注いだ。なぜ玉ねぎ?玉ねぎはマーケットが大きい割に品種改良の努力が十分になされておらず,勝算があると感じたからだそう。実際,その計算は当たることになった。10年先を見据えた品種改良をして,「健康」が当たると予想した高栄養玉ねぎ「さらさらレッド」がヒットした。その後,辛味がない玉ねぎである「スマイルボール」も同様に高級店を中心に販路を拡大している。
実際にスマイルボールを生食してみたところ,確かに辛味がほとんどなく,甘い。香りは梨のようで,かじるとフルーツのような甘さが口の中に満ちるのでとてもおいしい。
岡本さんの哲学もさることながら,実際にこのような完成度の高い品種を作出することは大変な努力の成果なのだろうと思う。そのような努力が,現在の野菜を作っているということが改めて認識される機会だった。
 
☆四人目 長谷川英佑氏
農学院准教授。働き蟻や蜂といった社会性昆虫について研究する研究者で,働き蟻の中には一定割合で働かないものがおり,その働かない働き蟻だけをより分けると,意外なことに働く者と働かない者の双方の集団が生じる,といった研究で非常に話題となった教官。発表の内容はかなり学術によったもので,単一蟻コロニーを用いた実験による働かない働き蟻の話をデータを交えて説明していただいた。
働き蟻は常に働き続けているもの,というパラダイムが一転する,非常にセクシーな研究であると言える。これを踏まえて同氏は,コロニーの持続可能性について言及している。
シミュレーションによる実験結果から,働き蟻の中での労働刺激に対する応答性に分布がある場合には,分布が無い場合よりもコロニーの持続性が上がるということが示唆された。すなわち,生物集団として持続可能であるものが生き残るであろうし,それらが実際に生き残ってきた為に,このパラダイムに則った生物集団のみが現在保存されてきたのではないか,という仮説を立てる。
これが証明されれば,旧来のダーウィニズムの提唱に次ぐ進化生物学の大きなパラダイムの転換である。なにしろ,同氏は集団持続パラダイムがダーウィニズム的パラダイムの上位に存在していると主張しているためである。則ち,ダーウィニズムに反した生物でも集団持続の網の中に存在するならば現在まで子孫を残し続けていると考えられるが,その逆はありえないという議論である。
帰納的にはどうやら正しいといえる議論であるが,実験的,シミュレーションでの証明により,仮説を実証にもってく段階であると説明され,大変エキサイティングだった。
やはり,科学をやるにしても他の事をやるにしても,世の中の常識を大きく変える仕事に取り組めることは幸福なことだ。就業するにあたって,慣れだれ崩れとならないよう,現在のパラダイムを疑えるような視座を持ち続けられるようにしたい。
 
幕間 TED Talk
「ボディ・ランゲージが人を作る」
ボディ・ランゲージ(非言語的表出)が人の思考様式を変え,ホルモンの分泌量をも変えてしまうという一見不可思議な話題。
しかし,考えてみるとそこまで不思議な話ではない。経験から語ってしまって申し訳ないが,高校時代には演劇をやっており,役を1時間演じていると本当にその役に没入してしまう。おそらくそれは,まやかしなどではなく,本当に,演劇を演っているときは役者は登場人物なのだ。
すなわち,自分が理想としている,もしくは組織の中で必要とされている態度をとると,人間の脳はうまくだまされてしまい,それが本心であると錯覚する。これは人間に備わったある種の便利機能だと解釈することができる。
『脱常識の社会学』に示されていた集団の構成に重要であるところの「儀礼」は,この性質を巧みに利用したものであるだろう。後々,これらに科学的な解釈が挿入されていくのだと思う。
 
「影の街」
世界には多くの不法占拠住民がいる。バングラデシュのダッカ,エジプトのカイロ,ムンバイ,リオデジャネイロ等。去年留学したストックホルムにもいた。この人口は徐々に増加しており,一つの都市問題となっているが,彼はその問題点に照準を合わせているわけではない。
演者は,これらの不法占拠している住民が活気に満ちた生活を営んでおり,ある人に至っては再び街に戻ることを拒む事もあるそうだ。これは驚異的な事だと思われる。なぜ,安定しており,電気も水道も存在している街よりも,それらが一切保証されないスラムに住むことを選ぶのだろうか。
彼は,その原因を明確には示していない。ただ,ユニークな提言として,「スラムを保持するための」さまざまな施策を行うことを提案している。それらを行うことによりスラム内でのコミューンの形成を促進することができ,その中から都市生活者ではまったく生み出すことができなかったような価値や発明が生まれてくるかもしれない。
都市礼賛の現代に生まれた者として,この言葉は深く刺さるものであると思う。現代における都市の役割と,それを逆転させたところのスラムの役割,しっかり考えるに値するものだろう。
 
 
昼食にはトルティーヤが供され,おいしくいただいた。参加者の多くはトルティーヤを食べるのが初めてだったらしく,巻くことがままならない人がおり少し面白かった。夕食はパーティで,道産食材を使ったこだわりを感じる料理が揃っており,参加費3000円のイベントとは思えないものだった。オーガナイザーの方々は大変だったと思うが,とても良いイベントだった。お疲れ様でした。

修論発表終了。

修論発表を終えた。ボチボチだったと思う。当初は原稿を作って読み上げて発表練習をしていたが,ボコボコに叩かれたので開き直って原稿なしでスライドの内容から逐次話す内容を考える方式で発表した。そうしたら,意外とうまくいったので良かった。準備の負担も大したことはなかった。

 

札幌はいい街だけども,あと20日程度で離れることになる。名残惜しいものだ。

寒い日が多くなってきた

底冷えしている気がする。寒いだけならいいが、風が吹くのでたちがわるい。吹雪は人の精神を効率的に削る働きがあるが、南国の吹雪はおろか雪の経験も少ない人にとっては全くないことだろう。羨ましい。

読書、さっぱり進まない。『社会心理学講義』半分くらい。『しあわせ仮説』1/3。『書を捨てよ、街へ出よう』再読。読了。修論の準備をしなくてはならない。

学振内定を袖にしたのでこれで学術とは袂を分かつ事になる。次のステージでも精一杯がんばれるよう、精進したい。

読了『ホロコースト全証言』

心が痛くなる読書だった。随所に目をそむけたくなるような表記や写真が掲載されているので,読書スピードが落ちてしまい結局読み切るのに1か月ほどかかったと思う。しかし,非常に意味のあるものとなった。

どう考えても起きえないと思われていたことが,欧州で起きてしまった。その元凶はまさしく総統アドルフ・ヒトラー以下ハインリヒ・ヒムラー,アドルフ・アイヒマンらだったけれども,末端での犯罪は一般のドイツ人やドイツ人以外の人々が行った。このことは確かに考えてみれば当たり前のことだ。しかし,現状の薄い歴史の授業ではそこまで深めることができなかった。

また,虐殺のための福祉づくりという点に非常に興味を持った。ドイツは被虐者に対しては徹底的な非人間的な状態を強いたが,加害者に対しては殺人の苦痛からできるだけ遠ざけるような配慮をした。恐ろしいことである。故に,殺人の方法は銃殺や撲殺からガス車,ガス室へと遷移し,効率的殺人工場としてのアウシュヴィッツ・ビルケナウ絶滅収容所の完成へと至るわけである。

アウシュヴィッツダッハウ等の収容所の悲劇はなにもユダヤ人にとどまるものではない。ユダヤ人絶滅政策の前にはナチは精神障碍者を根絶やしにする政策を実行に移し,大勢の同胞を殺戮した。また,国防軍電撃戦を繰り広げた独ソ戦線で捕虜となった赤軍兵も丸腰の内に殺された。防共の名において,国家を守る名において,国民を守るという名において。数百万人が殺されたと,主張している。

本書の素晴らしい点として,各事実の羅列の中に大勢の証言が含まれていることがある。それは,旧来からみられる被害者の証言はもちろんのこと,一般市民,虐殺に加担した人,指導者などさまざまで,立体的にナチスの犯罪に迫れる内容になっている。

虐殺とユダヤ人排斥の精神性については,『ブラックアース』が詳しい。

また,精神病理学的観点からみた囚人の心の動きや,自分自身の感情の変化,体の変化などについては名著『夜と霧』が非常に良かった。

他にも現在読書中の『社会心理学講義』にもホロコーストに関する内容が登場する。こちらは読了したらメモを書こうと思う。今後は『イェルサレムのアイヒマン』,『アウシュヴィッツ強制収容所』,『ニュルンベルク・インタビュー』,『ヒトラーの娘たち』などを読み進め,ナチスの犯罪についてより多面的,立体的な知識を得たいと考えている。

 

 

 

(メモ)科学研究における個人主義と連帯について

修論を順調に書いているが,過程で色んな事があったのでメモとして吐き出しておこうと思う。

 

1. 個人主義の重要性

まず,前提として学府において個人主義は非常に重要であって,学問の遂行のためには学が独立していることのほかに研究者個人が独立していることは大事だと考えている。他人や他の機関から圧力を受けて実行するサイエンスはおそらく「研究者の自由な発想から得られるもの」からは離れていくであろう。この文脈においては,現状の世界規模で進行するグラント不足問題は科学を真の科学からある解釈の中で閉じたものとして小さく纏まってしまうのではないかという懸念を生む。特に,審査を行う側に立つ人が老人になってしまい,組織の存在の保証のみを目的にまわりがちな審査をするようになったとき,そこから生まれるサイエンスは基準が古い,陳腐なものとなると思う。

 

2. ゼミ教育における個人主義

反面,現在グローバルスタンダードとなっているゼミ教育においては個人主義を拗らせることは,その人にとっても周りにとっても不幸である。先日,このような話を聞いた。

(僕のある意見を受けて)あなたはそう思っているかもしれないけど,僕はそう思っていないし,それぞれの考え方がある。その中で研究を本気でやらない人がいるのもしょうがないし,それが目指すべき方向,見解の違いだ。個人主義でいいじゃないか。 

 僕はこの言説を聞いて非常に腹が立った。これはゼミ教育と大学院教育の基本的な性質を完全に舐めている,というか理解しようとすらしていないために出てきている言の葉で,僕はまったく承服できなかったし,討論に持ち込みたいと思ったし,なんなら殴りにいこうかと思ったが,周りの人にたしなめられてやめた。

曲がりなりにも大学,それも地域では大きな大学と言われている学府の,それも大学院にあってこんな言葉を耳にするとはまったく思っていなかった。以下にこの発言の問題点を述べる。

  • 当事者意識が欠如していること

まず,彼は残念ながら大学院に研究をしに来ている当事者意識が決定的に欠如している。学部の学生であるならば譲っても良いとは思う。学部の人が突然研究室に身をおいて,自身のテーマで,自分の考えを持てるまでに至らないほうが普通。一方,大学院生は,研究をしに来ているという当事者意識が必要である。その意識なしに大学院に存在している事自体を恥ずかしいと思うべきなのに,残念ながらそこまで思考が至らない人なのかもしれない。

このような人が何となくゼミにいて,なんとなくゼミをこなしてしまう環境が,実はかなり大きな問題である。この空気を作り出すことにより,相互に批判することがなくなり,<なんとなく>,<上から与えられたことを>,<Dutyとして>行える人が要領が良くて,規範となってしまう。こうなってしまえば,もはやそれは科学をしに大学院にいるのではなくて,学費を払ってラボ・テクニシャンをやっている人ということに成り果てる。真に学生自身がテーマについて考えて,考えて,相談して,確固たる骨を身につけさせることが,大学院教育,ひいては研究者の教育として求められていることだと僕は思ってきたが,どうやらこれは僕の中だけのことだったらしい。過度の理想化だったのだろうか。

  • 価値の相対化ができていないこと

結局のところ,討論に持ち込むことすら拒否されているのがこの言葉から伝わることにも科学の徒として腹が立つ。その言い訳に対してそれはそれ,これはこれ主義で挑むことはもはや挑んですらない。自分はこの話題について議論することができないと認めるのであればまだかわいいものだが,そこに検証の姿勢や意見を以ってやり合おうとする姿勢が無いのにもかかわらず,自分は意見を言った風な気持ちになってあとは高いところから,という冷笑主義的な態度を感じる。

というところで非常に違和感を抱いたというか腹が立ったのであるが,このような事を臆面も無く言ってしまう学生が出現したのは,現状の大学院教育の構造的な問題点があるためではなかろうか。

 

3. 就職予備校となっている現状

失われた20年を経て,就職戦線は例年にない売り手市場となり,どうやら2018年組も売り手市場が継続しつつあるようだ。しかしながら,いまだに大学院に行くことが理系のスタンダードになっていることが,最も大きな日本の大学院をダメにしている問題だと思う。すなわち,学部からの持ち上がりで大学院生になり,自分自身を全く成長させることなく修士号,果ては博士号を取得し,しかも目線の先はサイエンスではなくて就職,安定した生活,という人ばかりになってしまうということである。この構造は明らかに研究室のスタッフと学生の意見の不一致を生む。特に,厳しい環境で叩かれた若手研究者が学生をスタッフとして教える場合に最も生じるであろうと予期される。

しかし,学士,修士号はよほどのことがないかぎり授与されてしまうから,教員といくら対立していても結局は学位もらえるんでしょ,という学生側の甘えが透けて見える。大学院教育も舐められたものだと思う。本気で,優秀な層に研究者のキャリアを歩ませるためには,この構造を打破する必要があるであろうと思う。すなわち,大学院修士課程においては半分程度の学生を留年させ,ストレートで学位が取得できないことがあると示しをつけなければならない。学部教育のようにただ出れば単位が出て無気力でも学位が取れます,という雰囲気で,最低レベルの学位論文以上の研究ができるモチベーションが生まれるはずがない。

そのような人が何となくいるだけで,議論が薄いものになり,だらけた空気が蔓延してしまう。何となくその場で仲良くしておけばいいというような,仲良しクラブが生じる。仲良しクラブで研究ができるかよ!そんな瑣末な人間関係の機微に頭を使っている暇があるなら,目に見える研究をして,頻繁に議論をするべきだろう。それができないならば,研究室にいるだけで目障りだから,早く去るべきだ。迷惑千万。

 

……でも,何でか理由はわからないけど大学院出ると確かに就職は良いことは認める,それは認める。ただ,それが人間としての魅力が修士になって学士より上昇しているということでそのようになっているのか,何となく優秀そうだから,というような価値基準が生まれてしまっているのか,真相は謎すぎる。日本企業は新卒一括採用の恩恵を受けつつ当たり前のように苦悩を背負うように運命付けられているから,迷走は仕方がないのだとも思う。

 

今日も寝られなかった。きっと明日も寝られないだろう。冷静に考えたら大したこともないことに対してむやみに悩んでいる気がしてきた。僕はアカデミアに残らないのだから,未来など案ずることもないのに……

読書メモ『ホロコースト全証言』

久しぶりに,本の内容が有機的に繋がる経験をしている。原書房ホロコースト全証言―ナチ虐殺戦の全体像』は,1940年台に行われた近代最悪の犯罪であるナチス・ドイツによるユダヤ人等の大量虐殺の有様を証言を交えて記述したものである。実は,この読書以前に慶應義塾大学出版会の『ブラックアース』を読みホロコーストの根底に存在する精神性に対する考察を読み,また,『現代思想』の相模原障害者殺傷事件の記事を読んだ。やはり,これらに共通する精神は存在していて,我々がいわゆる多数派に属している時の少数派に対する冷徹な視線が実際に社会の中に存在しうることで,それがアドルフ・ヒトラーという起爆剤をもってして国家的な犯罪にドイツ国民を誘導することになったということだろう。本書において,著者はホロコーストの責任をいわゆる責任者であったヒトラーヒムラー,アイヒマン等の権力の中枢に存在していた人々のみに認めるのではなく,一般のドイツ市民にも当然責任があると主張する。当時の第三帝国において国民は国家に奉仕することを求められたことはやむを得ない事象としてとらえられるが,良心を失い人間狩りを行うのはやはり罪である。反面,思想がその方向に誘導されていったことも事実であり,如何にいわゆる大衆が権力の手に堕ちてしまうかということが想起される。そのような意味において社会運動を行うことや世代の政治に批判を加えることは無価値ではなく大きな価値がある。

 

学生生活を終えるにあたり,周辺に批判対して正当に挑めない人が多い事に落胆を覚える。ある意味,何も分かっていないにも関わらず権力に迎合し,事なかれ主義で何となく送る学生生活にどのような意味があるのだろうか。で,何となく就職活動をして何となく大企業の従業員になって,そこに幸せがあるのだろうか。確かに人並みの幸せは享受できるかもしれないが,知性を与えられた存在としてある以上,その構造に対する批判をすることによる世界の改善は必要であるし,そのような事が自発的にできるような人になりたいものだと思う。