siztsbの日記

考えていても言葉にできないことを文章にして残しておくことでいつでも読み返せるようにしています。

(メモ)科学研究における個人主義と連帯について

修論を順調に書いているが,過程で色んな事があったのでメモとして吐き出しておこうと思う。

 

1. 個人主義の重要性

まず,前提として学府において個人主義は非常に重要であって,学問の遂行のためには学が独立していることのほかに研究者個人が独立していることは大事だと考えている。他人や他の機関から圧力を受けて実行するサイエンスはおそらく「研究者の自由な発想から得られるもの」からは離れていくであろう。この文脈においては,現状の世界規模で進行するグラント不足問題は科学を真の科学からある解釈の中で閉じたものとして小さく纏まってしまうのではないかという懸念を生む。特に,審査を行う側に立つ人が老人になってしまい,組織の存在の保証のみを目的にまわりがちな審査をするようになったとき,そこから生まれるサイエンスは基準が古い,陳腐なものとなると思う。

 

2. ゼミ教育における個人主義

反面,現在グローバルスタンダードとなっているゼミ教育においては個人主義を拗らせることは,その人にとっても周りにとっても不幸である。先日,このような話を聞いた。

(僕のある意見を受けて)あなたはそう思っているかもしれないけど,僕はそう思っていないし,それぞれの考え方がある。その中で研究を本気でやらない人がいるのもしょうがないし,それが目指すべき方向,見解の違いだ。個人主義でいいじゃないか。 

 僕はこの言説を聞いて非常に腹が立った。これはゼミ教育と大学院教育の基本的な性質を完全に舐めている,というか理解しようとすらしていないために出てきている言の葉で,僕はまったく承服できなかったし,討論に持ち込みたいと思ったし,なんなら殴りにいこうかと思ったが,周りの人にたしなめられてやめた。

曲がりなりにも大学,それも地域では大きな大学と言われている学府の,それも大学院にあってこんな言葉を耳にするとはまったく思っていなかった。以下にこの発言の問題点を述べる。

  • 当事者意識が欠如していること

まず,彼は残念ながら大学院に研究をしに来ている当事者意識が決定的に欠如している。学部の学生であるならば譲っても良いとは思う。学部の人が突然研究室に身をおいて,自身のテーマで,自分の考えを持てるまでに至らないほうが普通。一方,大学院生は,研究をしに来ているという当事者意識が必要である。その意識なしに大学院に存在している事自体を恥ずかしいと思うべきなのに,残念ながらそこまで思考が至らない人なのかもしれない。

このような人が何となくゼミにいて,なんとなくゼミをこなしてしまう環境が,実はかなり大きな問題である。この空気を作り出すことにより,相互に批判することがなくなり,<なんとなく>,<上から与えられたことを>,<Dutyとして>行える人が要領が良くて,規範となってしまう。こうなってしまえば,もはやそれは科学をしに大学院にいるのではなくて,学費を払ってラボ・テクニシャンをやっている人ということに成り果てる。真に学生自身がテーマについて考えて,考えて,相談して,確固たる骨を身につけさせることが,大学院教育,ひいては研究者の教育として求められていることだと僕は思ってきたが,どうやらこれは僕の中だけのことだったらしい。過度の理想化だったのだろうか。

  • 価値の相対化ができていないこと

結局のところ,討論に持ち込むことすら拒否されているのがこの言葉から伝わることにも科学の徒として腹が立つ。その言い訳に対してそれはそれ,これはこれ主義で挑むことはもはや挑んですらない。自分はこの話題について議論することができないと認めるのであればまだかわいいものだが,そこに検証の姿勢や意見を以ってやり合おうとする姿勢が無いのにもかかわらず,自分は意見を言った風な気持ちになってあとは高いところから,という冷笑主義的な態度を感じる。

というところで非常に違和感を抱いたというか腹が立ったのであるが,このような事を臆面も無く言ってしまう学生が出現したのは,現状の大学院教育の構造的な問題点があるためではなかろうか。

 

3. 就職予備校となっている現状

失われた20年を経て,就職戦線は例年にない売り手市場となり,どうやら2018年組も売り手市場が継続しつつあるようだ。しかしながら,いまだに大学院に行くことが理系のスタンダードになっていることが,最も大きな日本の大学院をダメにしている問題だと思う。すなわち,学部からの持ち上がりで大学院生になり,自分自身を全く成長させることなく修士号,果ては博士号を取得し,しかも目線の先はサイエンスではなくて就職,安定した生活,という人ばかりになってしまうということである。この構造は明らかに研究室のスタッフと学生の意見の不一致を生む。特に,厳しい環境で叩かれた若手研究者が学生をスタッフとして教える場合に最も生じるであろうと予期される。

しかし,学士,修士号はよほどのことがないかぎり授与されてしまうから,教員といくら対立していても結局は学位もらえるんでしょ,という学生側の甘えが透けて見える。大学院教育も舐められたものだと思う。本気で,優秀な層に研究者のキャリアを歩ませるためには,この構造を打破する必要があるであろうと思う。すなわち,大学院修士課程においては半分程度の学生を留年させ,ストレートで学位が取得できないことがあると示しをつけなければならない。学部教育のようにただ出れば単位が出て無気力でも学位が取れます,という雰囲気で,最低レベルの学位論文以上の研究ができるモチベーションが生まれるはずがない。

そのような人が何となくいるだけで,議論が薄いものになり,だらけた空気が蔓延してしまう。何となくその場で仲良くしておけばいいというような,仲良しクラブが生じる。仲良しクラブで研究ができるかよ!そんな瑣末な人間関係の機微に頭を使っている暇があるなら,目に見える研究をして,頻繁に議論をするべきだろう。それができないならば,研究室にいるだけで目障りだから,早く去るべきだ。迷惑千万。

 

……でも,何でか理由はわからないけど大学院出ると確かに就職は良いことは認める,それは認める。ただ,それが人間としての魅力が修士になって学士より上昇しているということでそのようになっているのか,何となく優秀そうだから,というような価値基準が生まれてしまっているのか,真相は謎すぎる。日本企業は新卒一括採用の恩恵を受けつつ当たり前のように苦悩を背負うように運命付けられているから,迷走は仕方がないのだとも思う。

 

今日も寝られなかった。きっと明日も寝られないだろう。冷静に考えたら大したこともないことに対してむやみに悩んでいる気がしてきた。僕はアカデミアに残らないのだから,未来など案ずることもないのに……